パラセーリングと、シャワーの出ない宿
Text 馬場正尊
4月、春の終わり、佐賀県唐津の海でパラセーリングをやることになった。ハワイやグアムや沖縄ではない、唐津だ。ただ、海の美しさはそれらにも実は負けてない。映画「グランブルー」のジャック・マイオールがこのエリアの海が好きで訪れていたこともある。僕は小さい頃から今でも、ここで泳ぎ続けている。
でも、なんでその唐津で、パラセーリングをすることになったのか。なんとそれは行政政策である。佐賀県庁は時々ぶっ飛んでいて、奇想天外な策に出る。唐津の恐るべきポテンシャルが明るみに出れば、僕の思い出の海がざわざわしてしまうから、実はそっとしておいて欲しいなぁと思っていたのだけど、アグレッシブな佐賀県庁は、どうやらそれを許さないようだ。なんと、みずからパラセーリング用の船とセールを購入し、美しい海と島を空から見てもらうことで、観光地としての覚醒を仕掛けようとしている。僕もそのプロジェクトにいつの間にか関わることになり、この日は届いたばかりのパラセーリングボートと、新たに採用されたスタッフが実際、海の上でお客さんを乗せてみる研修に呼ばれたのだ。要するに、人体実験である。
もちろん、パラセーリングは初体験で、それがどんなものなのかもよく知らなかった。そんなまま船に乗せられ出港した。ボートの上ではベテランの指導員が、新しいスタッフにいろいろ教えている。
「こうすると危ないから、やめるように」
みたいな生々しい指導が目の前で行われている。しばらくすると、
「では、これ装着して、ここに立ってください。セールを取り付けます」
と促される。え、これくらいのノリで、そのまま行っちゃうわけ?と思ったが、もう後戻りはできない。
「ロープの長さは200メートル、最高で海面から70メートルまで上がります」
まじかよ、20階建てのビル相当じゃん、そんな高さ、まだ設計したこともない。
と、思っているうちに、ボートはスピードを上げ、僕の体はすでにふわりと浮き上がっている。そしてあっという間に、小さく波立つ海面は眼下にあった。
正直、めちゃくちゃ気持ちいい。これはやばい、癖になる。思ったよりも怖くないし、揺れたりもしない。プロペラとかもないから、ただ風の音だけで、一緒に飛んだ飯石さんと普通に会話ができる。説明し忘れたが、このパラセーリングは2人1組で並んで空に舞い上がる。その方が安定するそうだ。飯石さんは公共R不動産のメンバーで、このプロジェクトを一緒に進めている。彼女も実験台のひとりだ。
空中では余裕で写真撮影もできる。しばらくすると高さに対する感覚が麻痺してきて、周辺を落ち着いて眺められるようになる。知っている場所だけど、まったく違う見え方をする。気持ち良い上に、貴重な体験でもある。これは人気がでそうだ。強引なアクティビティーによって、そのエリアの魅力を新しい角度から顕在化させる作戦、なんだか佐賀らしい。正攻法ではなかなか立ち打ちできないから、1点突破で状況をこじ開けていく。これも地方都市の醍醐味。潮風で髪はちょっとベタついたけど、今後このエリアではシャワーなども完備されるし、面白いプロジェクトになりそうだ。
実験台としての任務を終え、夕刻、近くのレストランで、イカの活きづくりや玄海灘のとれたての刺身を食べてから、レンタカーで福岡へ向かった。翌朝の始発で東京に戻らざるをえず、空港の近くのホテルで味気ない1泊をする。コンビニで買ったビールとつまみを部屋に持ち込んで、海の余韻を味わいながら、寝落ちした。そして、それが不運の始まりだった。
翌朝、目が覚めた。シャワーを浴びて空港に向かわなければならない。昨晩は寝ちゃったので、潮風にさらされてベトついた髪を早く洗いたい。シャワーを出しシャンプーで髪を洗い始めたら、なんだかどんどん水圧が下がっていく。しばらくすると、ちょろちょろとしか水が出ない。おかしいと思い、繋がってる蛇口をひねっても水は出ない。しばらく格闘するも、改善の兆しなし。当然、頭はシャンプーまみれだ。しばし立ち尽くし、冷静に状況を分析する。改善の手がかりはない。フライトの時間は迫っている。おそらくこの現象は、この部屋、このフロアだけの問題ではなく、受水槽のポンプにトラブルが起きてることが想像できる。建築は専門だし、若い頃、設備事務所に勤めていたこともある。設備の系統図を頭に浮かべると、原因は根本的なものだから、短い時間でこの部屋から対処する方法はない。フロントに電話をかけても、おそらく同じようなことがあらゆる部屋で起こってるのが想像できるから、現場はパニックだろう。
考えた末、体と髪を拭き(もちろんベタベタのまま)、部屋にあったパジャマみたいな服を着て自動販売機に向かった。そこで4本のペットボトルの水を買い、胸に抱えて部屋に戻った。途中、誰にも会わなくてよかった。頭はシャンプーまみれで、大量のペットボトルを抱えた不思議なおっさんの姿は、誰にも見られずにすんだ。
水をこんなに大切にしながら体を洗ったのは久しぶりだ。自販機でキンキンに冷やされたミネラルウォーターが体にしみる。まだ4月だから、どんどん冷え切っていく。そして時間もどんどん迫ってくる。完璧ではないが、まぁギリギリ許されるところまで、シャンプーを洗い流した。もちろんちょっと気持ちが悪い。
そんなドタバタを経験しながら、ちょっと懐かしい気持ちになった。僕はバックパッカーで若い頃リュックひとつでいろんなところに旅をした。インド、バングラディッシュ、トルコ、モロッコ……。その頃は、いつ蛇口の水が止まるのか、お湯が水に変わるのか、ハラハラしながらシャワーを浴びたもんだ。途中で止まって、やはり同じように買っておいた飲料水で急場をしのいだこともあった。30年以上前の安宿での体験だ。まさかこの歳で、都会のビジネスホテルでこんな目に合うとは思わなかった。ただ、バックパッカー時代の経験が、機転と寛容さにつながっている、ということにして気持ちの穴埋めをすることにした。
急いで支度をし、フロントに降りていく。当然、パニックでフロントには人はいない。そりゃそうだ。クレームを言っても仕方がないし、時間もないから、そのまま空港へ足早に向かった。
ただ、話はここで終わらない。無事にチェックインし、搭乗ゲートでメールチェックなどをし、通常モードへ。そんな中、こんなアナウンスが流れた。
「羽田空港の管制塔トラブルで、現在、多くの便の出発を見合わせております。現在、原因を調査中で、運行再開の時間は未定です。次のお知らせは45分後の……」
羽田空港のトラブルで福岡空港から出発するフライトが止まっているということは、これは日本中に影響が出てるということだよね。そう簡単に復旧する状況にないことは容易に想像できる。ふつうなら「やれやれ、空き時間ができたと思って仕事しよう」と合理的に考えるタイプではある。ただ今日は、ちょっと様子が違う。髪の毛が、頭が、とにかく気持ち悪いのだ。この手の不快感に僕はとにかく弱い。
東京ではミーティングが詰まっている。新幹線に切り替えるか。しかしこのベタベタ状態のままなのは耐えられない。博多駅周辺で朝からやってる銭湯とかサウナとかを探す。いくつかある、良さそう、今度行ってみよう。いやいや、今はそんなことを考えている場合ではない。
ミーティングをすべてオンラインに切り替えて、近くのビジネスホテルに駆け込むか。こんな時間からチェックインできるのだろうか。朝早くなので事務所に電話しても誰もいないし、そもそも遠隔での解決方法はない。いろんな試行錯誤を繰り返した。
そういえば、こんな経験も久しぶり。いつもは時間刻みの出張を、予定通りにこなしている。こんなトラブルも滅多にない。若い頃の旅は、自由で時間があって、予測不能なこともたくさんあった。それを知恵を使ってかいくぐった。それが醍醐味でもあり、楽しくもあった。だから、こんなふうに頭を使ったのが、何か懐かしく、途中から嬉しくなってきてしまった。
そしてすっかり頭を切り替え、あの頃のモードに戻り、じたばたせずに状況に身をまかせようと開き直った。
ここから先の行動を書いていいのかわかんないのだけれど、身障者用のトイレを近くに発見し、そこに入って体をきれいにし、スッキリして搭乗ゲートに戻った。数分間、トイレタイムと同じくらいの占有なので大丈夫ですよね。
そこからフライトまでの数時間、なんだか新鮮な気持ちで過ごすことができた。そこにあるもの、そこにある環境をうまく使って、なんとなく乗り切っていく感じ。おそらく、僕はそれが好きなんだと思う。