言葉と出来事で巡る、リノベーションからパーソナルアーバニズムまでの歴史
Text 馬場正尊
この論考は、リノベーションの変遷と、それがどのようにパーソナルに、個人に近いところにたどり着いたのか、それをかなり主観的な見解でまとめたものだ。学術的な裏付けがあるわけではない。ただ、その時々に都市に、現場に流れてきた風を感じながら、ときにはそれに乗り、ときには逆風に向かいながら走ってきた、身体感覚によるレポートである。
■1990年代──裏原宿、ファッションからの風
日本におけるリノベーションの萌芽は「大文字の建築」の対極のアパレル業界にあるのではないか。パーソナルを包む柔らかいファッションの世界に、その潮流を感じたのは1990年代。時はバブルが崩壊し、不動産価格が暴落していた。
東京では裏原宿、大阪では南船場や堀江といった、中心からちょっと外れた裏路地の、開発から取り残されたボロボロの倉庫やアパートをアパレルのショップがスクウォッティングし、ゲリラ的な店舗が出現し始めた。用途変更はもちろん建築基準法などどこふく風、やりたい放題だった。
重厚長大な産業や建築ではなく、古着を着こなすような感覚で都市の風景を軽やかに変えてゆく様を僕はうらやましく見ていた。彼らの都市に関わるスタンスは、いい加減だけどスピーディで、身体に近い感じがした。日本におけるリノベーションの起源は、案外ここからなのかもしれない。
■2000年代前期──CETと東京R不動産、アートからの風
個人的な話であるが、僕にとってのリノベーションの原点は、アンディ・ウォーホールの「ファクトリー」である。1960年代のニューヨーク・SOHO。ボロビルの内部を銀色に塗りつぶし、おまけに自分の髪も銀に染めて、そこを住居兼アトリエとし、アートシーンの中心地となった。残っている写真や数々のエピソードから、アートが都市をジャックし、変えてゆくきっかけにすらなることを知り、自分もそんな状況の中に身を投じてみたいと、学生時代から思っていた。
2000年代に突入した東京では、丸の内や六本木など超高層ビルが次々に竣工していた。そこで話題になったのが「2003年問題」。都心部に高層ビルが過剰供給されることにより、周辺の古い中小ビルが余りまくることが懸念された。
だとすれば、そこにチャンスがある、と気がつき集まったのが、都市プロデューサーの清水義次、デザイナーの佐藤直樹、アートキュレーターで後に小説家となる原田マハ、建築分野ではみかんぐみの竹内昌義や33歳の僕。それぞれの興味の領域から、今から余るであろう空き物件に可能性を感じていた。特にターゲットとなったのが東京のイーストサイド、日本橋や神田の奥地である。そこには時代に取り残されたような問屋街、使われていない倉庫、誰が着るのか想像がつかない服が並んでいて、それはエキゾチックな光景にすら見えた。
僕らは、その街が、ニューヨークのブルックリンやミートパッキングディストリクト、ロンドンのイーストサイド、ベルリンのミッテ地区のような、東京におけるアートの震源地となるポテンシャルをビリビリと感じた。
そして、起こったのがCET(Central East Tokyo)と後に呼ばれるようになるアートムーブメント(のようなもの)だ。
僕らはチームをつなぐメーリングリストをつくり、知り合いのアーティストやクリエイターに声をかけ始めた。この動きに賛同する人々が、次々にジョインし、メンバーの数は100人をあっという間に超えていった。このネットワークを支えたのがメーリングリストだったのも、時代を象徴していたと思う。SNSが発明される前のことだ。
それと同時に、問屋街のビルのオーナーたちに手当たり次第、こんなお願いをして回った。
「秋の2週間、この街の空き物件を期間限定のギャラリーにします。アーティストたちが、その空間にあった作品を展示します。それが街じゅうに点在することで、街全体全体を巻き込んだアートエリアになっていくんです。だから、物件をタダで貸してください!」
今、冷静に書いてみると、なんとわがままで身勝手なお願いだったことか。ただ僕らは、アートが街を変えるんだという信念と不思議な情熱で、結果30カ所以上の空き物件をアーティストに解放した。こうして2003年秋から、東京のイーストサイドをフィールドにしたCETが始まった。このイベントは、そこから10年続き、数々のアーティストやクリエイターを世に送り出すことになる。
ちなみに「東京R不動産」も、これをきっかけにテイクオフした。ビルのオーナーに、「これがきっかけで、空き物件が埋まるはず」と、空手形を打ってしまっていたので、それを実行すべく、できたばかりのR不動産サイトに物件情報をアップしていった。すると、アートによって覚醒されたこのエリアの魅力とポテンシャルに気がついた人々が、次々に引っ越してきてくれた。それと歩調を合わせるように、東京R不動産の事業が軌道に乗り、知名度も上がっていったのだ。
気がつけば、2000年代の後半には街の様相が変わり始めていた。100前後の空き物件が、クリエイティブなコンテンツで埋められていたのだ。
不確実性が高まるばかりの現代に対して、行政が立案するマスタープラン型の都市計画は変化のスピードについていけなくなり、次々と立ち行かなくなっている。一方、CETが起こしたのは、点の変化が連鎖するように起こり、それぞれがつながって面的に展開していくような現象だった。計画的ではない、しかしだからこそ不確実性に対して柔軟で、状況に応じて形を変えながら進化していくことができる。演繹的な従来の都市計画のプロセスではなく、帰納的に生成されてゆく状況である。
「これは、都市計画の新たな手法なのではないか?」ということに意識的になったのは、少し経ってからだ。この新しいエリア形成の手法を、後の書籍では、「エリアリノベーション」と名付けてみた(『エリアリノベーション 変化の構造とローカライズ』2016年、学芸出版社)。
■2000年代後期──新しい経済の風
CETおよびアートを通じて起こった現象は、街の様相は変えたものの、行政の制度や経済にそれほどコミットしない、インディペンデントなものだった。だからこそ僕らは純粋に面白がれたわけだが、状況を変えるムーブメントにはなっても、事業性や継続性が担保されるわけではなかった。
一方で、アートやデザインに事業性を掛け合わせた動きが並行して起こり始めていた。古いビルを投資案件として購入し、リノベーションでバリューアップ、不動産資産として運用するデベロッパーや事業者が次々に現れたのだ。CETのようなムーブメントが経済の枠組みに合流することで、ただのリフォームにとどまらない、オフィスを住居化したり、倉庫をホテル化したりといった、用途変更を伴うダイナミックな活用が模索され、リノベーションは一気に広がり始めた。「リノベーション」という単語が一般名詞化したのもこの頃だ。
建築の専門誌でも、リノベーション特集が組まれるなど、アウトサイドだと捉えられていたこの領域が、社会にも建築業界にも急激に浸透していった。
それに伴い、特に若い建築家たちを中心に、新たな価値観が生まれた。設計だけではなく、自ら事業者になり、プロジェクトを作っていくという動きだ。この新たな世代は、不動産や飲食などを組み合わせ、企画から設計、その後の事業運営までを一括して担うこともいとわない、事業横断型の発想をごく自然に持っている。長いデフレと日本の経済的な停滞の中、それをサバイバルするのと同時に、状況自体を楽しむ新たな建築家たちが姿を現し始めたのだ。
僕はその中では決して若い方ではないが、その潮流の中にいるひとりだと思う。Open Aでは後に設計だけではなく、「泊まれる公園 INN THE PARK」のようなホテルや、シェアオフィス「Under Construction」など、自分たちが企画設計した空間の運営を始めることになる。
■ 2010年代前期──リノベーションのパーソナライズ
このようなリノベーションのムーブメントは、プロから普通の生活者へと瞬く間に伝わっていく。前述したように、日本のリノベーションはファッションと相性が良く、古着を着こなす感覚で、自分たちの暮らしの空間を自分たちで変えてゆく人々、特に若い世代が増えていった。それを後押ししたのも、『BRUTUS』などのサブカルチャーの雑誌や、YouTubeのセルフリノベーションの動画だったと思う。
東京R不動産でも、リノベーション可能な物件が人気を博したり、不動産仲介だけではなくて、リノベーションの設計や施工を相談する人が増えていた。
そんな動きに応えて僕たちがつくったのが、「toolbox」というサービスである。これは、エンドユーザーでも購入可能な建材のオンライン・セレクトショップだ。当時は、フローリングや建具、洗面台やキッチンなどは個人では購入が難しく、工務店経由になるのが一般的だった。それでは本当に自分の好きなツールを選ぶことができない。だとするならば、個人でもそのような建具を購入可能な流通システムを作ろう、と考えた。自分の空間を、自分で編集するための、まさに「道具箱」である。
こうしたメディアの登場も、リノベーションのパーソナライズに一役買ったのではないかと思う。大きなリノベーションから、小さなイノベーションへ、マーケットもエンドユーザーへと移行していった。
■ 2010年代後期──公共空間のリノベーション
こうしてリノベーションは、ディベロッパーから小さな事業者まで様々なレイヤーで広がりを見せ、建築においても不動産においても、もはや一般的な手法になった。
ただそれが届かない大きなフィールドがまだ残っていた。それが公共空間である。
公園や道路、水辺や公共施設など、日本の国土の多くを占める公共空間は巨大な資産であるが、活用や改革が遅れている。
同時に、行政は福祉や医療等の義務的経費が増大する一方で、公共空間に対する新たな投資やそれを活性化するための人材確保が困難な状態に陥っている。
2014年に、総務省は全国の自治体に向けて、行政が持つ公共空間のポートフォリオを作成し(「公共施設等総合管理計画」の策定)その合理化を求める方針を伝えた。それに伴い、ようやく行政も有り余った公共空間を、何らかの方法で再生する具体的な手段を模索せざるを得なくなっていく。
そこで浮かび上がってくるのが、公共空間のリノベーションである。
2013年に『Republic 公共空間のリノベーション』(学芸出版社)という本を問題提起として出版した。ひたすら公共空間の活用のアイディアを羅列した、企画書のような本だったが、それが案外インパクトがあったらしく、時間をかけて少しずつ浸透していったような気がする。
そんな動きの延長として、2015年にスタートしたのが、公共空間を民間企業とマッチングして楽しく活用することを誘発するメディア、「公共R不動産」である。
それからしばらく経った2017年、国土交通省は、Park-PFIと呼ばれる、公園に公民連携で新たな施設を作るための枠組みなどを準備した。これらの動きは、公共空間にリノベーションという手法を持ち込み、それをデザイン、そして運営する新たなタイプの事業者を誕生させるきっかけとなった。公共空間であるからこそ、単なる利益誘導型の施設や事業ではなく、何らかの形でパブリックに開き、貢献するような力学が働く。このような意味で、Park-PFIは広大な公共資産に、粒は小さいけれど際だったパブリックを生み出す追い風となったのは確かだ。
また面的なアーバニズムではなく、小さな点が数多く集積するようなアーバニズムの展開を広げるものだったのではないだろうか。
■ 2020年代──仮設建築と社会実験
2020年代に入り、コロナや、それによるオリンピックの延期、ウクライナ侵攻など、ちょっとした先の未来ですら不確実であると思わざるを得ない事態が頻発した。建設業界でも材料や燃料の高騰、慢性的な人手不足に引っ張られ工事費の上ぶれも続いている。建物を建てること自体が困難な時代を迎えているのだ。都市計画や開発計画はさらに立てにくい状況にある。
そこで積極的に活用されるようになっているのが暫定利用、仮設建築、社会実験など「物事を決めすぎずに進めてみる」というアプローチである。
この場合、大きな投資ができるわけでは無いからひとつひとつの造作は小さく軽く、仮設的なものとなる。そこでつくられるものは建築と家具の中間のような、身体に近いパーソナルなもの。
その風景や状況、成立する背景を知りたくて、2020年に『テンポラリーアーキテクチャー 仮設建築と社会実験』(学芸出版社)という本を出版した。これもまた、都市の現在のリサーチであり、同時に近未来への提案でもある。時は、コロナの真っ只中、人々が屋外空間の魅力に改めて気がついたタイミングでもあった。
家の軒先に小さなベンチを設えることや、個人が週末に始める屋台から、アーキグラムが夢見た数日間だけのインスタントシティのようなフェスまで、様々なスケールの仮設的風景を採集し、成立の背景やメカニズムを解き明かそうとした。
同時にいくつもの街で社会実験を行い、動かしたり解体することができる小さな建築を何種類もつくり、人々がそれとどのようにコミニケーションするかを観察している。そのような試行錯誤の中で、どのスケールで、どんなタイムスパンで存在しているのを建築や都市と呼ぶのだろう?と、考えてみたりする。
結局僕らがつくっているものは、ある時代の現象でしかないのではないだろうか。
南池袋公園の社会実験としてひらかれているマルシェで、たくさんの家族が芝生の上で適度な距離感を保ちながらそれぞれのパブリックを楽しんでいる風景を眺めながら、ぼんやりそんなことを考える今日この頃。
こうやって30年間駆けてみて残っているのは、建築をつくってきたというより、風景をつくってきた、という感覚だ。CETのようなイベントも、「R不動産」や「toolbox」のようなメディアも、リノベーションも新築も、ちょっと先の「未来の風景」を探すためのものだったのではないかという気がしている。自分の手でつくり出せる小さなパブリックが、大きな公共空間の中にまばらに点在し、それが許容され続けることが民主主義であり、実は幸せなことなのではないだろうか。
これからも時代の風を感じながら、その時に必要な何かを模索しながら、都市の風景をつくり出す部分に関わっていきたい。
(このテキストは、『建築雑誌』2024年6月号に掲載されたものです)